年号 長瀬産業株式会社の歩み
1917年

株式会社「長瀬商店」の設立

取引量の拡大とともに長瀬商店の組織も大きくなり、整備が進んだ。大正6年(1917)4月27日には、従来の店別単位を部単位の営業体制に改め、取扱商品の類別によって染料部、薬品部、機械部、雑貨部の各部門を設け、これまでの輸出部、輸入部を加え新たに本部を設置した。資本金については明治37年(1904)が4万2,500円(それ以前は不明)、明治39年10万円、大正5年100万円と、順調に増やしていった。

第一次大戦がもたらした好況により大きく業績が向上した当社は、一層の躍進と将来にわたる確固たる営業基盤の確立をめざし、大正6年12月31日限りで個人経営の「長瀬商店」を解散、株式会社「長瀬商店」を設立した。ここに、約85年に及ぶ個人経営の時代は幕をおろし、近代経営を取り入れた新たな会社組織へと生まれ変わった。

株式会社「長瀬商店」の設立当初の資本金は300万円で、営業所は本店、東京支店、京都支店、神戸支店、ロンドン支店、ニューヨーク出張所、天津出張所、漢口出張所、そして大正7年1月に開設した京都綿糸部であった。


株式会社設立当初の各部の取扱商品
染料部 ピロジン染料、シバ染料、三井アリザリン泥状、アメリカ製ヘチマン、その他硫化染料
直接塗料、塩基性染料、酸性染料
薬品部 媒染剤、硫化ソーダ、苛性ソーダ、晒粉、その他各種工業薬品
バーゼル化学工業会社医薬品(鉄フィチン、エルボン、ヂアールなど)
機械部 力織機械、メリヤス機械、生糸撚糸機械、刺繍機械、精練漂白機械、色染および捺染機械
織物整理機械、化学工業用諸機械、工作機械および工具
紡織および織機用品類
雑貨部 金物類(黒物、白物)、肥料類、雑穀類、麻袋、マニラ麻、パルプ、貝殻、人造絹糸、原皮類
生ゴム、丹仁剤
綿糸部 和洋綿糸、紡績糸、瓦斯糸、人絹糸
大正6年12月、会社設立時の大阪本店(北区堂島)

大正6年12月、会社設立時の大阪本店
(北区堂島)

時代
背景

時代背景

1918年
第一次世界大戦終結
1921年
メートル法が日本に公布される
1923年

イーストマン・コダック社との取引

当時、営業全般を担当していた長瀬徳太郎常務が注目したのが映画用生フィルムで、アメリカのイーストマン・コダック社(Eastman Kodak)からのフィルムの輸入販売である。  大正15年(1926)3月、本店に活動写真材料部を立ち上げたのがのちの映画材料部のスタートとなった。当初、この事業はまるで採算が合わなかったが、やがて当社のフィルム販売高は国内で第1位となり、イーストマン・コダックとのつながりは緊密なものとなった。その後、大日本セルロイド(現ダイセル化学工業株式会社)が初の国産映画用生フィルムの製造に成功し、昭和9年(1934)1月には富士写真フイルム株式会社(現富士フイルム株式会社)を設立して映画用フィルムの生産を開始した。当社は同じ年に同社製品の販売契約を締結している。映画業界への販売シェアの拡大により、昭和8年5月に東京支店にも活動写真材料部を設け、昭和16年には同部を映画材料部に改称した。

この時期、当社はイーストマン・コダックの要請を受け入れ現像所新設に踏み切った。昭和7年(1932)7月京都に極東フィルム研究所を作って現像作業を開始し、さらに昭和10年2月18日、株式会社極東現像所を設立して極東フィルム研究所の施設と業務一切を譲渡した。これが映像情報企業として知られる今日の株式会社イマジカ・ロボットホールディングス()である。

イマジカ・ロボットホールディングス株式会社(IMAGICA)は平成18年(2006)4月、商号を株式会社イマジカホールディングスに変更し、さらに同年7月、株式会社イマジカ・ロボットホールディングスに変更した。

当社と取引を始めた頃のイーストマン・コダック本社

当社と取引を始めた頃のイーストマン・コダック本社

時代
背景

時代背景

1923年
関東大震災
1924年
阪神甲子園球場が完成
1925年
日本初のラジオ放送がスタート
1930年

染料塗料事業の強化、米UCC社の販売代理店に

当社がアメリカのデュポン社(E.I.DuPont de Nemours & Co.,Ltd.)の画期的な塗料「デュコ(DUCO)」の輸入販売のため、交渉を重ねて総代理店契約を結び、これを機会に本店に塗料部を新設したのは昭和2年(1927)9月だった。当社は翌昭和3年1月に塗装研究所と塗料専用倉庫を設け、また『長瀬塗料月報』を発刊して宣伝と輸入塗料の販路拡大に努めた。同年5月には東京支店にも塗料部を設置し、関東以北にも販路を広げている。またこの年、木造だった平野町の本店を耐震・耐火性能に優れた鉄筋コンクリート造として立売堀に新築、移転した。

昭和5年7月、浜口雄幸内閣が成立して10大政綱を発表し、金輸出解禁の断行や緊縮財政の推進を唱えた。ところが同年10月24日、ニューヨークで株式の大暴落が発生したのである。相場は極度の混乱に陥り、これは間もなく世界規模の大恐慌へと発展していった。

恐慌の波及と金解禁などにより、日本経済は厳しい不況にあえいだ。輸出不振や購買力の減退と物価下落などで倒産が続出し、染色加工業界でも多数の業者が破綻していった。当社はこの深刻な不況期にあって、さまざまな苦闘と努力により売り上げ維持に努めた結果、比較的打撃は少なかった。

こうした状況のもと、当社は事業基盤の強化に向けて、海外の有力化学メーカーとの関係を深める努力を重ねた。それが米UCC社(Union Carbide Corporation. 現ダウ・ケミカル社)である。当社は大正12年(1923)にUCCからパラアルデヒドを試験的に輸入したが、これが同社との取引の始まりだった。その後昭和4年ごろから本格的な取引を行うようになり、塗料業界向けにセロソルブ、トリエタノールアミン、ブタノールなどを輸入して販路拡大に努めた。デュコを取り扱うようになって塗料部を新設してから、当社は塗料業界で確固たる地歩を占めるようになっていた。そのことでUCCも当社に好感をもち、三井、三菱、岩井、安宅などの錚々たる大商社を抑え、同5年11月に同社との間で化学品関係の総代理店契約を締結することに成功した。

当社が「化学品の専門商社」として大きく飛躍した第一の要因であり、今日もなお最大の基盤といえる化学品部門の発展・充実は、まさにUCCおよびチバ社との結びつきに負うところがきわめて大きい。

1980年までニューヨーク市にあったUCC本社ビル

1980年までニューヨーク市にあったUCC本社ビル

時代
背景

時代背景

1930年
金輸出解禁
アメリカで、世界で最初の冷凍食品が販売される
銀座三越が開店
第一回FIFAワールドカップ開催
1931年
満州事変
1932年

創業100周年を迎えて

昭和7年(1932)6月18日、当社は創業100周年を迎えた。このときの役員は長瀬伝三郎社長、長瀬徳太郎常務、長瀬半次郎常務、長瀬伝兵衛(千尋より改名)取締役、長瀬伝次郎監査役である。

記念祝賀会で伝三郎社長は創業以来の100年について、「実に多事多難な時代でありました。当長瀬商店は、その間にあって時勢の進運につれ、著しい変遷をたどりましたが、幸い今日まで順調に経過してきました。振り返ってみて実に感慨無量であります」と述べている。幕末に創業してから明治維新、日清・日露戦争など、内外にわたるさまざまな出来事や困難を乗り越えて発展してきたことをしみじみと述懐した挨拶だった。

しかし日本はさらなる激動の時代を迎えようとしていた。満州事変(昭和6年9月)以降、日本は中国大陸で戦線を拡大し、昭和13年5月に国家総動員法が施行されると完全に戦時体制が固められた。

当社はこのような非常時に、染料、薬品、機械、映画用生フィルム、塗料、自動車用品など輸入が細ったものは国産製品の取り扱いを増やし、業績を維持することができた。

昭和14年8月から染料は指定商品となり、自由な仕入れもできず価格も指定された。また輸入合成染料特約店組合、日本合成染料輸出協会、国産染料第一次配給組合、合成染料統制会などが相次いで創立され、切符制度による染料の配給も行われるようになった。

時代
背景

時代背景

1937年
パリ万国博覧会開幕
1938年
国家総動員法
映画女優として当時17歳の李香蘭がデビュー
1940年

名古屋支店の開設

当社は、個人経営の時代から名古屋方面の市場に進出していたが、取引が増えると出張所の必要性がクローズアップされるようになり、昭和8年(1933)11月に、まずビルの一室を借りて名古屋出張所を開設した。同13年9月には名古屋市東区にあった土地建物を買収して移転し倉庫も併設、同15年4月に支店に昇格した。

時代
背景

時代背景

1940年
日本ニュース映画社が設立(後の日本映画社)
1943年

長瀬産業株式会社へ社名変更

昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカ、イギリス両国に宣戦し、ここに4年に及ぶ太平洋戦争が始まった。当社は戦時下の昭和18年6月1日、それまでの「株式会社長瀬商店」から「長瀬産業株式会社」へと社名変更を行った。これは従来の商事・貿易業務だけでなく、関連会社に生産会社をもち、また直営工場を新設し、さらに生産事業への進出を見込んでいたためである。

日本にとって戦況はしだいに不利なものとなり、やがて本土空襲が始まると当社が受けた戦災も甚大なものになった。昭和20年8月15日、終戦の詔書が発せられ、ついに日本は連合軍に対して無条件降伏した。敗戦によって当社は、満州、中国、朝鮮各地の権益をことごとく失った。また少なからぬ当社従業員が応召中に戦死あるいは戦災死を遂げている。

戦争末期には当社の取引も縮小し、売上高は激減した。戦後になっても統制経済は続けられ、激しいインフレーションと金融引締め、財閥解体や過度経済力集中排除法の制定などによる企業の再編で、当社の経営もさまざまな困難に直面した。被災した施設についても速やかな復旧が望まれたが、資材不足もあってさしあたり仮設や、既存施設の増築で対応するしかなかった。

そんな中で日本の労働事情も大きく変化し、昭和22年9月の労働基準法施行後、当社では同年10月1日、本店に従業員組合が結成された。これが現在の労働組合の原点である。

当社は長瀬徳太郎社長がすべての重要交渉の先頭に立って、戦前に密接な取引関係にあったチバ社、UCC、セパレーター社(AB Separator、現アラファバル社)、イーストマン・コダックなど、海外有力メーカーとの取引復活に全力を挙げ、染料、工業薬品、機械、映画用生フィルムなどを多量に輸入した。

昭和18年6月の社名変更広告

昭和18年6月の社名変更広告

時代
背景

時代背景

1943年
東京都制が施行され東京府と東京市が統合東京都となる
1945年
第二次世界大戦が終結
財閥解体
1947年
学校給食が開始される