年号 長瀬産業株式会社の歩み
1957年

人事部・社長室の新設

事業が発展し従業員が増え、会社の組織・機構が大きくなるにつれ、適切な人事管理の必要が高まってきた。そのため昭和32年(1957)11月、本店に人事部を設け、全社を通じて一貫した人事管理を行うことになった。それまでは大阪と東京で別個に採用を行い、社員の正確なデータも整理されていなかったのである。また、そのころの当社はいまだ定年制が導入されておらず、制度の確立も緊急の課題だった。そこで長瀬誠造専務(当時。のち社長)が担当となり、庶務部が行っていた人事関係業務を人事部に移管し、定年制の実施をはじめ給与・旅費・退職金規程の改定、そして役職制度を整備した。

定年制導入に当たっては社員に配慮し、当時一般的であった「55歳定年」ではなく「58歳定年」とし、また58歳間近の社員に対しては退職年齢を延ばす緩和措置も盛り込んだ。

こうした人事部の新設や制度の確立については、長瀬博康(当時の通称。本名は英男。)が中心的な役割を果たした。さらに新入社員講習会も開催することとし、その後定着していった。ちなみに当時の従業員は各工場、倉庫を含め男女合計750名にのぼる。

さらに事業が拡大を続けていたことから、正確な長期計画と確固たる内部統制も求められるようになり、昭和35年9月、本店に社長の直属補佐機関として社長室が新設された。室長には誠造専務、副室長に彰造常務が就任し、博康次長が統括責任者として運営を担った。社長室は各部門と密接な連携を保ち、組織・経営・管理方式の確立を目標に、各部門間の総合調整、設備投資の企画・調整などを行うこととした。まず最初の業務として組織に関する諸規程の制定、予算を含む経営計画、取扱商品の調整などを実施した。なお、社長室はその後、コンピューターの導入、新規企画開発などの業務を手がけている。そして昭和46年6月、所期の目的を果たしたことから開発、計数、財務、総務の各部に機能を移管し、発展的に解消した。

時代
背景

時代背景

1957年
岸信介内閣成立
フランク永井「有楽町で逢いましょう」がヒット
1958年
巨人・長嶋茂雄選手が公式戦デビュー(4打席4三振)
1960年

コダック製品部の新設

イーストマン・コダックは主に映画用生フィルムを通して当社と取引を続ける一方、スチル用を主とした一般感光材料、機器などは特約代理店8社を通じて日本の市場に供給していた。

輸入制限が緩和されるようになった情勢の変化をとらえ、製品の販売拡大を図るため同社は日本における総代理店の新設を計画し、そのパートナーに選んだのが当社である。当社は総代理店業務を受諾し、昭和35年(1960)4月1日にコダック製品部を新設した。長瀬彰造常務(当時。のち社長)が初代部長として就任した。事務所は東京都中央区の西銀座ビル1階に置き、同37年1月からはグラフィックアーツ・テクニカル・センターを設置してコダック・システムによる写真製版の技術指導も始めた。

コダック製品部心斎橋サービスコーナー(昭和41年)

コダック製品部心斎橋サービスコーナー(昭和41年)

時代
背景

時代背景

1960年
高度経済成長期に突入
ソフトビニール人形「ダッコちゃん」がブームに
1961年

施設・工場の拡張

不況をはさみながらも、神武景気、岩戸景気を含む昭和30年(1955)から40年までのおおむね10年間、日本の経済は他に例を見ないめざましい発展を遂げた。昭和35年秋には池田内閣のもと「所得倍増計画」が打ち出され、高度経済成長の道をひた走ることになる。この時期、当社では事業の発展にともない建物や設備の拡張を積極的に推進した。本店建物の増築、平野町営業所と塩町営業所の設置、東京支店新館の建設と本町営業所の新設、さらに名古屋支店新館の建設など、本支店の建物や営業所が次々と整備されていった。

需要が急増していた石油化学薬品は、従来のドラム缶取引に加えバルクによる取引が増加していったため、当社はタンク貯蔵施設の建設を行うこととした。神戸市が埋め立て工事を進めていた分譲地のうち、3,300坪(約1万1,000㎡)の割り当てを受けて昭和36年12月に起工式を行い、神戸油槽所の第1期工事を翌37年5月に完了している。その後、当社は社長室主導でアメリカのGATX社(GATX Corporation)、日本通運と合弁で日本ガテックス株式会社(現・日本ヴォパック株式会社)を設立し、昭和41年12月、土地を除く神戸油槽所の一切の施設を同社に譲渡した。

経済成長にともない、産業界では合成樹脂の需要が急増していた。これに対応して当社は昭和35年から36年にかけて摂南第2工場を新設し、合成樹脂の着色・加工を行った。完成後は摂南工場をここに移転統合して新たに摂南工場として稼働していたが、昭和41年2月15日、新会社セツナン化成株式会社として独立させ、当社の土地・施設を同社に貸与した。



合成樹脂部の誕生

当社薬品部で合成樹脂と製品を扱い始めたのは、戦中の昭和17年(1942)ころである。当時は航空機の風防ガラス用メタクリル樹脂を販売する程度だったが、すでに第ニ次大戦の前に、海外ではユリア樹脂、ポリ塩化ビニル、ナイロン66、メラミン樹脂など、優れた性質をもつプラスチックの合成・工業化が盛んになっていた。しかし用途は主に軍需用だった。民生分野に広く普及することになるのは戦後である。

当社は需要が急激に伸びつつあったポリエチレンにいち早く着目し、イーストマン・ケミカル製品を主とした輸入品や国産品の販売を活発に行ったが、ポリエチレンの輸入では常に10%以上のシェアを保つ最大の供給者だった。さらに、ポリエチレン、塩化ビニル、ナイロン、可塑剤などを次々と取り扱った。一方、それに先立って昭和25年からはチバのエポキシ樹脂「アラルダイト」の輸入を開始し、その後、尼崎東工場でチバの技術に基づいてエポキシ樹脂・硬化剤などの変性を手がけるようになった。

輸入品も国産品も取扱量が著しく伸長したため、昭和36年8月1日、本店と東京支店に合成樹脂部を新設して、当時の化学薬品部(昭和33年に薬品部を改称)から合成樹脂関連の業務を分離・移管した。

セツナン化成

セツナン化成

時代
背景

時代背景

1961年
初のスポーツのカラーテレビ放送が開始(大相撲初場所)
1962年
第45代横綱の初代若乃花が引退表明
マリリン・モンロー逝去
阪神タイガースが15年ぶりの優勝
1963年
大阪駅前に日本で初の横断歩道橋が設置される
ケネディ大統領暗殺
アニメ「鉄腕アトム」のテレビ放送がスタート
1964年

株式を公開(大阪証券取引所第2部に上場)

当社は昭和39年(1964)9月、大阪証券取引所市場第2部に上場を果たした。

「長瀬産業」の名は未公開の優良会社として各証券会社から注目されており、しばしば上場の勧誘を受けていた。

公開時の売り出し株数は156万株、売り出し価格は190円で、初日の市場最終価格は207円である。

上場日現在の資本金は10億円、株主数は632名であった。その後、昭和41年4月に当社は株式公開後初の増資を行い、資本金は15億円となった。さらに昭和43年5月にも増資を行い、資本金は18億円へと増加した。

折しも昭和42年6月18日は当社創業135周年、また12月9日は当社設立 50周年に当たっていた。この年の6月18日は日曜日のため、当社は前日の17日を期して創業135周年、設立50周年の記念祝賀式を挙行した。

本店での135周年祝賀式

本店での135周年祝賀式

時代
背景

時代背景

1964年
東京オリンピック開催
1965年
映画「サウンド・オブ・ミュージック」公開
ビートルズが来日し日本武道館で公演