4つの金メダルを持つ
村岡桃佳選手が望む
NAGASEカップの向こう側 前編
平昌パラリンピック、北京パラリンピックと併せ4つの金メダルを獲得しているアルペンスキーの実力者・村岡桃佳選手もまた二刀流の道を歩んでいる。2021年の東京パラリンピックでは車いす女子100メートルにも出場、T54のクラスで6位入賞を果たした。
東京・駒沢オリンピック公園総合運動場では3月26日、「オール陸上競技記録会」が行われ、女子100メートルT54で16秒69の好タイムを叩き出し優勝を飾った。7月にパリで開催される世界選手権で上位入賞を果たすことができれば、2024年のパリパラリンピック出場も視界に入って来る。
「オール陸上競技記録会」は雨に祟られたこともあり、車いすレースの難しさについて村岡選手はこう語った。
「一日中雨という天気、それにすごく寒かったので、一度レースを走り濡れて冷えた後、また次のレースまでアップして身体を温めるという難しさがありました。特に車いすの場合は、タイヤが雨で濡れてしまうとどうしても滑ってしまう。(車いすを)走らせるには、ハンドルを手で握ってタイヤを回しているわけではなく『ハンドリム』と呼ばれるゴムが巻かれた部分にグローブを当てて車輪を回します。これも雨だとすべってしまうんです。そこに寒さが加わるので、どうしてもタイムは狙いづらくなります。多くの選手が世界選手権に向け良い記録を狙って来る中で本当に難しいコンデションだったなと思います」。
天候がアスリートに影響を与えるということは無理からぬ常識ではあるものの、自身の身体以外のツールを駆使して競技に臨むパラアスリートにおいては、想像の範囲を超えた難易度があるとあらためて思い知らされるエピソードだ。
村岡選手が車いす生活を余儀なくされたのは4歳の頃、まだ保育園に通い始めたときのことだ。脊髄の病気が原因だった。記憶が鮮明なわけではないが、歩けなくなった日のことはなんとなく覚えているという。ご両親の方針から特別支援学校などには通わず、保育園、小学校、中学校と一般の学校に通学、その点から周囲に引け目を感じてしまうことも多かったそうだ。
「物心ついた頃から、自分は周りの友だちとは違うんだ……というのがすごく嫌でした。特別視されてしまうのも嫌いで『なぜ自分ばっかり…』という思いはずっとありました。現実を受け入れられなくて、「これは何か悪い夢で目が覚めたら自分は普通に歩けるんだ」と、心のどこかで逃げている自分、逃げたくなっている自分もいました。いつかは歩けるようになると、中学校1年生ぐらいまでは現実逃避していましたね」。
友だちと鬼ごっこをしているとき、いつも特別視をされていた。鬼役の友だちが目の前までやって来ても、自分にはタッチをせずに他の子を追いかけて行く。まるで「私が見えなかったかのように」という状況だった。しかし、もしタッチされ鬼になってしまったら、車いすの村岡選手が他の子を追いかけることができないこともわかっている。友だちのその行為は子どもなりに気をつかってくれた優しさの現れだったのだが、村岡選手は自己嫌悪に陥ることもあったという。いじめに遭うという経験はなかったが、やはり自分だけが特別だった。
しかし小学校2年生になると、父の勧めでパラ陸上競技を始めることになった。実はこのとき、村岡選手はまったく積極的ではなかったという。
「その時の目に写った光景、その瞬間が、まるで写真みたいに自分の記憶に残っていますし、その際の心の持ちようも鮮明に覚えています。嫌だな、なんでそんなところに行かないといけないのかな……と。でも父の顔を見たら、必死というか『これは断れないな』 と子どもながらに直感し、『わかった、行くよ』と答えました。父も実は『絶対行こう』というよりも『そういうものがあると聞いたから、どうかな』という気持ちだったらしいです。結果としてそれが私の人生を変えてくれました。今となってはしぶしぶでも父について行ってよかったと感謝しています」。
当時は今のように共生社会の実現、ダイバーシティという言葉もなかった。バリアフリー、ユニバーサルデザインといった言葉が認知されはじめたばかりのころだ。嫌がらせもなかったが、違いを持つ人々が共生して行くというビジョンは希薄だったろう。そんな時代に父が娘を慮っての誘いだった。それまで学校の中では自分しかいなかった仲間に出会った。はじめて「自分だけじゃないんだ」と思えた瞬間だった。
人生の新しい扉を開いたスポーツ
スポーツへの参画は徐々に村岡選手を変えていった。
「スポーツを始めたからといって、完全なポジティブな人間になったかといったら、まったくそういうわけではありませんでした。ただ、それまで引け目に感じていたのが、胸を張れるようになりました。小学校の運動会に競技用の車いすを持ち込み一緒に走らせてもらったり。車いすバスケにもチャレンジしたので、バスケの授業も、こなせるようになりました。自分自身の引き出しがちょっと増えたなと思います。大会に出場したおかげでメダルが取れ、朝礼で表彰されたり。周りから『桃佳ちゃん、すごいね』と声をかけてもらえるようにもなりました」。
スポーツのおかげで自分と同じ境遇の仲間も増えた。それまでは学校の中で車いすに乗っているのは自分だけだったが、同じように車いすに乗る仲間と出会った。パラスポーツのおかげで、鬼ごっこでもかくれんぼでも対等に遊べる同年代の友だちがいる。
「自分だけじゃない。それはすごく嬉しかったですね、それこそスポーツで一緒に切磋琢磨できる友だちでもありましたし、仲間ができた感じです。これをきっかけに学びが増え、ひとりでできる事柄も増えました。スポーツで関わる人たちがどんどん増えて行きました。まさに人生の新しい扉を開けたという気分です」。
パラスポーツ、そしてパラリンピックの存在を知り「こんな世界があるんだ」という刺激を受ける。ひとつの希望を得た瞬間だった。ただし、最初からパラリンピックが具体的な目標として見えていた訳ではなく、最初は夢のような、現実味のないものであったと村岡選手は語る。
小学校3年生になるとスキーも始めた。シーズンスポーツのため、当時は年に1、2回「遊びに行く感じ」だったと語る。冬しかできないという特別感もあり、楽しかった。陸上競技とは異なる新しいコミュニティが少しずつ広がったことで、スキーに出かける回数も増えて行った。
ただし、車いすで生活をしていると、スキーは陸上よりもさらにハードルが高い。まず、競技場に足を運ぶのとは異なり、山の上まで移動しなければならない。雪上を車いすで移動するのも至難の技だ。道具の調達、着替えの場所の確保、トイレの問題などと、ハードルは大小様々だった。「一方、スキー界のコミュニティからすると『元気な小さい子がやって来たなぁ』と歓迎ムードで、そのうちスキー競技にも参加するようになって行きました。まだまだ女子の競技人口も少ない領域ですし、継続するハードルも高いので、スキー界の先輩方も気に懸けてくださったのかな。気がついたら競技スキーへのレールに乗っていた気がします(笑)。陸上競技を始めた際もそうでしたけど、私自身は割と気軽に構えていたんです。それがいよいよソチパラリンピックが迫り、今後の人生で競技とはまったく関係ない世界を生きて行くのか、それとも競技人生を歩むのかという選択を迫られる時期がやって来ました。パラスポーツに参加する中で気づいたのは、やはり小さい頃からの夢はパラリンピックに出場するということです。最終的にソチを目指すという選択をしました」。
この後の村岡選手の活躍はみなが知るところだ。
村岡 桃佳(むらおか ももか)
4歳の時に病気の影響で車いすでの生活となった。小学校3年時にチェアスキーと出会い、
中学2年時に競技スキーの世界へ入る。17歳で日本代表に初選出。ソチパラリンピックに出場し、大回転で5位入賞。
日本選手団の旗手を務めた平昌パラリンピックでは、大回転優勝を含む出場5種目全てで表彰台に上がり、
冬季パラリンピックにおける日本人選手史上最年少の金メダル、また日本人選手最多、1大会5個のメダルを手にした。
翌年春からはパラ陸上競技短距離にも本格的に取り組み、東京2020パラリンピックに出場、6位入賞を果たした。
日本選手団の主将として出場した北京パラリンピックでは、金メダル3個、銀メダル1個を獲得。
冬季パラリンピックにおける通算4個の金メダルは、日本選手で単独最多となった。
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→【後編】「ダイバーシティや共生社会」それらを現実のものとするためには、
私たちの心の持ちようにも変革が必要とされるだろう。