「ロンドンで浴びた「ブーイング」
文化の違いを感じる」

2024.10.10

Column

井草 貴文選手インタビュー(前編)

T37(脳性まひ)の井草貴文は、国際舞台を経験しながら心身ともに大きく成長してきた。世界トップレベルの走りを目の当たりにして差を痛感しただけでなく、観客の反応にも日本との大きな違いを体験したという。NAGASEカップを一つのモチベーションとしながら、さらなるスケールアップを見据えている。

井草 貴文(いぐさ たかふみ)
1990年、東京都出身。2歳で脳動脈が狭窄する疾患「もやもや病」を発症し、右半身に麻痺が残る。小学校〜高校はサッカーをプレーしており、大学で陸上を始める。3年時にパラ陸上と出会い、パラアスリートの道へ。現在は株式会社ヤクルトで本社勤務する傍ら練習に打ち込む。T37 (脳性まひ)の800m、1500m、5000mと中長距離3種目で日本記録を保持。1500mの4分19秒92はアジア新で、23年の第2回NAGASEカップでマークした。

障害を持つことになった経緯などを教えてください。

2歳のときに「もやもや病」を発症しました。ただ、その頃の記憶があまりないのが正直なところです。両親の話を聞くと、もともとはよく言葉を発する子だったらしく、発症した日は全く何も話さず反応が悪かったということです。かかりつけ医を受診したら急きょ大学病院に緊急搬送されて、そのまま緊急手術になりました。

発症当時は右半身全部が麻痺していて、言語中枢にも影響がありました。その後も右上肢に特に麻痺が強く出るのと、下肢にも少し麻痺が残りました。ただ、自分としては「右手が悪いだけ」という感覚。運動は苦手ではなかったので小学校の頃からサッカーをやっていたし、両親の教育方針もあって通常学級で生活してきました。

サッカーは運動量が必要な競技ですよね。どんなプレーヤーだったのでしょうか?

足元の技術があるわけではなくフィジカルで頑張るタイプで、ポジションはサイドバック。淡々とやるのがすごく好きでした。特に強豪のクラブチームだったわけではなく、中学校も高校も部活動です。高校は例えば「東京都のベスト16を目指す」くらいの中堅で、それなりにトレーニングがしっかりした環境で、チームメイトと切磋琢磨しながら取り組んでいました。

そこから大学で陸上を始めたと聞きました。どのような体験があって、陸上に打ち込むことになったのでしょうか?

大学入学直後のタイミングで、たまたま陸上競技のサークルの先輩に声をかけてもらい、練習に参加しました。それが陸上との出会いでしたが、最初は本当にショッキングでした。周りは高校まで陸上に取り組んでいて、サークルながら大学でも続けた選手たちばかり。全く歯が立たなかったんです。半周差や1周差をつけられることもざらにあって、かなり悔しかったです。私もサッカーを通じて長い距離を走ることに関しては全然苦にならなかったのに、全然足りなかったというか、陸上では体の使い方も使う部位も全然違うんだ…と実感しました。

走力はあっても、陸上ならではの「動き作り」ができているかどうかで全く違うと痛感したのですね。大学では自力でフォームを固めていったのでしょうか?

サークル活動だったので特に指導者がいたわけではなく、陸上経験者の学生から学びました。どういう練習をしていたかを聞いたり、フォームを携帯電話で撮ってもらって改善したり。陸上の雑誌とかを見て情報収集しながらやっていました。

そうしているうちに、「大学4年間だけで終わらせるにはもったいない」と思うようにもなり、卒業して社会人になっても続けていきたいと考えました。今はフルタイムで働いて平日はその後に練習し、休日は練習に充てる生活をしています。

大学4年間ですっかりのめり込んで現在に至るということですが、在学中にパラ陸上と出会いました。経緯などを聞かせてもらえますか?

大学3年生になる春休みのとき、同じ練習会場で義肢装具士の方に声をかけていただいたのがきっかけです。ただ、最初は半信半疑でした。というのも、「ウサイン・ボルトの走りを見た時の衝撃に似ている」と言われたからです(笑)。おそらく私の気持ちを乗せるためにおっしゃったと思いますが、自分の中では「いやいや待てよ、そんなわけはないだろう」と。疑問に感じるほどスケールの大きい言葉をかけてもらったので、時間をもらって考えました。

素敵な誘い文句じゃないですか(笑)。そのおかげで今があるんですね。

はい。また負けず嫌いな性格もあって、今は壁にぶつかりながら一歩ずつ進んでいくことがすごく楽しいし、できないからこそ「どうすればいいか」を考えるのも楽しい。その方に声をかけていただかなかったらどういう人生を歩んでいたのか…ちょっと想像できないほど、今はすごく充実しています。だからこそ、誘ってくれて本当に感謝しています。

口ぶりからも、充実していることがうかがえます。これまでの競技人生で、印象に残っている出来事はありますか?

2015年にドーハ(カタール)で行われた世界パラ陸上選手権大会です。初めてパラ陸上日本代表として選出された大規模な国際大会でした。右も左もわかっていないような状態で、ガチガチに緊張しながら現地に入って試合に臨んだ記憶があります。

実際に試合でも、世界の広さを感じました。当時から日本記録を持っていましたし、「日本で一番の実力を持っている」と自負はしていたんですが、それでも全然歯が立ちませんでした。悔しい思いと「まだまだやれる」という思いが混在して、陸上の面白さを経験しました。大会後は基礎的なスタミナを底上げしつつ、スピードを上げて維持する力を養うために400mのトレーニングなども取り入れました。2年後の2017年には再び世界選手権に選出してもらうことができ、少しずつ成果を感じ始めることができました。

2017年の世界選手権では、もう一つ印象的な経験をしました。開催地のロンドンは、5年前の2012年にオリンピック・パラリンピックが行われた場所。だからなのか、パラアスリートに対してプロサッカー選手並みの注目をされているように感じました。

実際に私が感じたのは、800mのレース中。集団が互いに牽制し合ってスローペースになっていたら、観客席からブーイングが湧き出てきたんです。最初は歓声かと思いましたが、どうも様子が違う。「レースが面白くない」という意思表示だったんです。日本ではあり得ないようなことで、それこそ本当に分け隔てなく見てくれているからこその反応ではないかと。驚きもしましたが、ブーイングされて逆にうれしかったくらいです。

日本もそうなっていくように、私たちパラアスリートの立場としてやれることがあれば、しっかりして取り組んでいきたいと思っています。

やはり海外で国際大会を経験することは、価値観を広げるきっかけになり得るのかもしれませんね。これまでの競技人生を通じて、今はどんなことを感じていますか?

スポーツに関しては、おそらくほとんどの方が学生時代までで一区切りになるものだと思います。その中でも私は社会人としてまだ続けさせていただいています。感謝していますし、何かしら本気になれるものに出会えたことをすごく幸せだと感じています。

今は週に5〜6回の練習をしています。「仕事が終われば練習ができる、試合に向けて頑張れる」という思いが生まれるし、逆に練習や試合をすることでまた仕事に向かう活力も湧き出てきます。仕事も陸上も頑張る。その両輪で生活をしていて、その相互作用が本当に大きいと思います。

競技と仕事の両輪を噛み合わせながら日々を重ねていった先に、今後どのようなターゲットを持って取り組んでいるのでしょうか?

パラリンピックのような大きい大会に関しては一区切りとなりましたが、来年には世界選手権がある予定ですし、その後は2026年に名古屋市でアジアパラ競技大会が開かれるので、そこに向かって取り組んでいるところです。ただ、日々の一つ一つの積み重ねだと思っているので、まずは10月のNAGASEカップでしっかり記録を狙っていくことを目標として頑張っています。

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