「よく生きてたな…」
冷静に障害を受け止め、新たな目標へ

2024.10.10

Column

又吉 康十選手インタビュー(前編)

「逆境をバネに」という表現が、あまりにも当てはまりすぎるのではないだろうか。又吉康十。生命の危機に瀕する事故から復活し、左下肢の板バネとともに大きく跳躍する。持ち前の運動能力と負けん気を原動力にT64(義足)走り幅跳びで頭角を表し、現在は国内の第一人者。その先に「パラ陸上だから」という前提を取り払った、フラットな地平を思い描く。

又吉 康十(またよし こうと)
1994年、沖縄県出身。名護高ではラグビーをプレー。卒業後は救急救命士を志して帝京平成大に進学した。3年時に電車との接触事故で左下肢を切断。リオパラリンピックの走り幅跳び(T42)銀メダリスト・山本篤から競技用の義足を譲り受け、パラ陸上を始めた。T64(義足)男子走り幅跳びで記録を伸ばし、23年6月には6m65のアジア新(当時)をマークした。

事故で障害を持つようになる前は、どんなスポーツに親しんでいたのでしょうか?

小〜中学校はずっとバスケットボールで、高校でラグビーをやっていました。大学では部活には入っていませんでしたが、遊びの延長でスポーツは続けていました。将来は救急救命士になりたいと思っていたので、その意味でも身体を動かすことは好きで続けていましたね。

沖縄県はバスケットボールが盛んな土地柄ですよね。その中で高校からラグビーを始めたというのが少し意外です。どんな経緯だったのでしょうか?

ラグビー部自体が強くて、全国にも行くレベルだったんです。高校の時も1年生の冬まではバスケをやっていたんです。ただやっぱり「ラグビーをやってみたい」という気持ちが強くて、バスケも好きだったんですけど、ラグビー部に入りました。「全国」という舞台を経験したことがなかったので行きたいと思っていた部分もありましたね。

僕らの2つ上の学年くらいまでは強くて全国大会にも出場しましたが、僕自身は九州大会まででした。バックスのセンターというポジションで、めちゃくちゃ走っていました。足が速かったわけではないですけど(笑)。

そこから大学進学と同時に関東地方へ移り、3年生の時に事故に遭いました。当時を振り返って、どんなシチュエーションだったのでしょうか?

事故の記憶がないので、後で医師から聞いた話になりますが、電車とホームの間に足を挟まれたのではないかということでした。

3日ほど意識がなく、起きたら手術も全部終わっていました。たまたま救急救命士の勉強をしていたので、授業で見たようなケガの名前が診断書にいっぱい並んでいるな…と。「逆によくこれで生きてたな、ラッキーだったな」と感じました。大学で学んでいたこともあって、ショックで落ち込むような時間は特になかったです。

脾臓と右の腎臓は事故で摘出していたし、肺にも穴が空いていました。肋骨も折れていたのかな。中枢神経は傷ついていなかったですが、それ以外は割とボロボロでした。足はもう修復できないので切断されていましたし、意識が戻った時にはまだお腹が開いている状態。体の至るところを管で繋がれていた状態でした。

一命を取り留めた、という言い方になるのだと思います。そうしたシチュエーションですと、救急救命士という人生の目標設定を切り替える必要性も生じてきたのではないでしょうか?

「さすがに無理かな」とは思いましたが入院中に調べたら、海外に義足の救命士がいるという内容の記事を読みました。「もしかしたらそこまでいければ、もう一回目指せるかもしれない。とりあえず資格は取ろう」と思って、1年後くらいに復学しました。やっと日常生活に戻れて、実家療養から一人暮らしを再開。ケガをする前もやっていたアルバイト先で働いて、色々と気遣ってもらったりもしました。

そのタイミングで山本篤という大腿義足の陸上選手と出会う機会があって、「板バネ」と呼ばれている義足をもらえたんです。高価なので買おうと思っても買えないですが、せっかくなので少しやってみようと。月に1回ある義足の人向けのランニングクリニックに行って1年半ぶりくらいに久々に走ったら、風が顔に当たる感じがめちゃくちゃ気持ちよかったんです。鳥肌が立つくらい。それで月に1回から週に1回、3回、5回になって…と練習量が増えて、試合に出ることになりました。

最初は都民大会のような小さな試合。やっぱり最初なので遅いし負けてしまいました。そうすると悔しい。もともとスポーツをやっていたし、負けるのはやっぱり気持ち良くないわけです。そこでもっと真剣にやろうと奮起して、本格的に陸上競技を始めました。救急救命士の資格は取らずに卒業しました。「諦めた」というよりは「新しい目標ができた」というような。就職も、パラ陸上の活動を支援してくれる会社を探して入社しました。

生来の負けず嫌いに火がついて、パラ陸上にのめり込んだのですね。競技を続けてきた中ではさまざまな経験をしてきたと思いますが、その中でも印象深かった大会や出来事などはありますか?

一番印象に残っているのは最近、5月に神戸で開かれた世界パラ陸上選手権。初めての世界選手権でしたが、自分のパフォーマンスを全く発揮できませんでした。今まではそこまで気にするタイプではなかったんですが、あの時はかなりダメージを食らいました。悔しかったですし、なんならまだ引きずっています。どんどん自分の記録を塗り替えてもう一回同じ舞台に立って、出し切ることができれば払拭できると思います。さらに頑張る理由ができました。

力を出せなかった要因は、コンディションの部分だったのか、国際舞台での緊張感だったのか、あるいはそれ以外の何かなのか…。反省する中で、どのように振り返りましたか?

体のコンディションはものすごく良かったです。かなり動けていたし、練習でもかなりの距離を跳べていました。ただ、練習から踏切がずっと合わなくて…それがそのまま本番に出てしまいました。前半の3本以内にまずは一発いい記録を出して上位に残らないと、後半の3本に残れません。でも3本以内にいい記録を出すことが練習からできていなかったし、改善できないまま本番になってしまいました。

健常者でも走り幅跳びの踏切が合うかどうかは非常に重要な要素で、しかもフィーリングが大切になってくる部分だと思います。その中でも最初に記録を残しておかないとどんどんプレッシャーが強くなって、悪循環に陥ってしまった部分もあったのではないでしょうか?

ありました。やっぱり1本目に記録を残すのが大事。試合のたびにコーチと一緒に「1本目は絶対に(記録を)残そう」と話をしていたんですが、1本目がファウル。2本目もファウルしてもう追い詰められて、最後はファウルにはならなかったけれど、しっかり踏み切れずに変なジャンプになってしまいました。本来、スポーツに「力み」という要素は全く要らないと思うんですが、変な力みが出てしまいました。今もそこから立ち直ろうとしている最中で、大きな大会で記録を更新することで記憶を塗り替えるしかないと思っています。

今ちょうど試練に直面している…というタイミングなのですね。これまでも競技を続けてきた中で色々な経験や出会いがあったと思いますが、その中で今の自分と強くつながりのある要素はありますか?

一番影響を受けているのは、5月に現役引退した山本篤コーチ。あとは同じクラスの世界記録保持者マルクス・レーム選手(ドイツ)ですね。ジャンプを初めて見たのは2018年のジャパンパラ陸上大会でした。スポーツというよりは、「美しい芸術を見た」ような。ジャンプしているのではなく、「飛んでいる」という感覚でした。一番のお手本にしていますが、さすがに自分がそこまで行けるとは思っていません。5月の世界選手権も同じ舞台で戦ったんですが、「この人に勝ちたい」とはまだ思えていなくて、むしろ一番の特等席で見させてもらっている感覚でした。現段階では本当に、尊敬と憧れしか出てこないです。

同じ地平に立つのが今後の目標でしょうか。競技を続けていく中で、どのようなビジョンを持って取り組んでいきたいですか?

今30歳なので、年齢的にも頑張れて次のロサンゼルス大会までかなと思っています。そこを一番の目標にしつつ、1年ごとの国際舞台でしっかり代表に選出されるよう記録を出し続けていきたいです。前回の世界選手権の反省を生かして、大きな舞台で自己ベストを出せるようにしたいです。

記録で言うと、7mジャンパーに仲間入りできるかどうか。世界ランキングでは、7mを跳ぶとおそらく8〜9位前後に食い込みます。最初に僕が出したアジア記録(6m65)はもう塗り替えられてしまって、今は6m97。その意味でも「7m」がまず最低限の目標だと思っています。NAGASE カップで狙っていきたいです。

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