頭角を現した若きホープ
国家資格と「二足のわらじ」
陸上の男子400mハードルでインターハイを目指していた松本武尊の日常は、高校2年生の7月に突如として閉ざされた。小脳出血。しかし作業療法士の助言を励みにリハビリに取り組むと、T36(脳性まひ)クラスのパラ陸上選手として新たなスタートを切った。自身も作業療法士として勤務する傍ら、競技に打ち込む日々。その視界に何を捉えているのか。
松本 武尊(まつもと たける)
2001年、千葉県出身。専大松戸高2年時に小脳出血を発症した。パラ陸上のT36クラス(脳性まひ)に転向し、すぐ100mと200mの日本記録をマーク。2020年には日本代表合宿に招集され、21年には400mでも日本記録を塗り替えた。東京パラリンピックは400mで7位、100mで10位。前回のNAGASEカップでは400mで自身のアジア記録を更新した。
まず障害を負うことになった経緯などを教えてください。
高校2年生の時に、「若い年齢の脳梗塞」のような病気になって後遺症が残りました。家の中で発症したんですけど、両親は外出しているタイミングでした。2世帯住宅で祖父母がいたので、祖父母に助けを呼んで緊急搬送されました。
自分の目が開いて意識が戻ったのはおそらく、発症してから1週間くらい経ってから。そこから、自分がこういう状態に置かれているということを把握できるようになったのが、2〜3カ月経ってから。そこでようやく自分の障害を理解して、挫折というか…ショックを受けました。
それまではごく当たり前の日常が続いていた中、突然病気によってそれが絶たれてしまったことになると思います。意識が戻って自分の現状を把握した時のショックは、想像するに余りある大きさがありましたよね。
「自分の思うように身体が動かない」というショックと、「早く学校に行きたいのに行けない」というショックがありました。とにかく学校が好きだったので、障害を負うことよりも、いちばんは学校に行けない辛さの方が大きかったのを覚えています。
当時はすごく泣きました。今となれば時間が解決をしてくれた部分はあります。医療にもやはり限界はあるけれど、その中でも「時間」が特効薬になったと思います。…ショックを受けました。
前向きにリハビリして生活していくに際して、時間を要した部分はあると思います。一方で、周囲からの励ましや投げかけなどもあったのではないでしょうか?
リハビリの時に担当してくれた作業療法士の方の存在が大きかったです。最初はずっと「治る」と思っていて、「多分治るからリハビリはしない」という意識でいました。でもそこで、作業療法士の方が「100%はもしかしたら治らないかもしれない。でも君の頑張りによっては99%は治るかもしれない」と言ってくれたんです。その言葉が自分の中ではすごく大きくて、「100%は治らないのであれば、リハビリをやるしかない」という意識に変化できました。それがあったからこそ、僕は今こうしていられると思います。
もちろん作業療法士の方の投げかけがあったからこそでしょうが、ご自身としても目の前の現実を受け止めて前向きになれた第一歩だったのではないかと推察します。それ以外にも、周囲のご友人から受けた励ましもあったのではないでしょうか?
高校の同級生が何度もお見舞いに来てくれていたので、下を向く時間が少なかったのがよかったのかもしれません。僕が入院していたのはまだコロナ以前の時期で面会制限もなく、毎日とか2日に1回とかの頻度で誰かしらが病室に来てくれる環境でした。それもすごく大きかったです。
僕がすごく気にしていたのが、「陸上部の中で自分の居場所があるかないか」ということでした。そういう中で陸上部の仲間が本当に何度もお見舞いに来てくれたり、千羽鶴を作ってくれたり…いろんなことをしてくれました。だからこそ復学をして、また陸上部に戻ることに対しても抵抗なく、スムーズに行ったと思います。
そもそもパラ陸上を始める以前からも陸上競技に打ち込んでいたんですね。どのような選手だったのか、教えてもらえますか?
もともとは400mハードルが得意でした。よく「キツい種目だよね」と言われますけど、僕はそうは思っていません。「ハードルとハードルの間の歩数を数えていればキツくない」というのが僕のテンプレートの答えでした(笑)。13歩か15歩か、ひたすらカウントしながらレースしていれば全然キツくなかったです。
2018年千葉県高校総体の記録を見ると、男子400mハードルの準決勝で56秒46。同じ2年生の中では全3組の中でも3番目のタイムでしたから、次の年は少なくとも南関東までは進めた可能性が高いですね。
高校2年生の春には千葉県高校総体でいい記録が出て、来年はもう南関東(高校総体)からインターハイに行けるかな?という感じでやってきました。そういう状況からの発症だったので、すごくショックでした。
今でも一番すごく記憶に残っているのは、高校1年生の新人戦で4×400mリレーに出た時です。結果的にはあれが最初で最後のマイルリレーになりました。陸上でこれから大きく羽ばたいていこうと思っていた時期で、とてもいい走りができたのですごく印象に残っています。
もともと小さい頃はバスケットボールなどもプレーしていたと聞いています。個人種目の陸上に進んだ理由や、陸上の魅力などはどのように感じていましたか?
陸上競技は個人種目なので、全責任が自分にきます。だから「どれだけその人が頑張っているか」が明確にわかるのがいいなと思っていました。あとは個人種目ということで、応援がすごく力になる部分もあります。応援してもらってどれだけ踏ん張れるか…というのは、レースをする側としてはすごく魅力的に感じます。
健常の陸上競技選手として取り組んでいた経験が、今に生きている部分もあるのでしょうか?
昔は健常者だったからこそ、走るフォームやレースプランなど、どうするのが理想なのかがわかります。元から障害を持って生まれたとしたら、「何がいけなくて何かいいのか」という基準がわからずにすごく悩んだかもしれません。競技の部分では、それが僕の強みの一つになっているんじゃないかと思います。
そこからパラ陸上の道に進むことになるわけですが、並行してご自身も作業療法士の道を進もうと勉強していた時期に重なります。どのようなきっかけだったのか教えてもらえますか?
高校に復学して陸上をやっていた時、部員から「バラ陸上だったら日本記録も出せるんじゃない?」と言われたんです。向こうは僕のモチベーションを上げるために言ってくれたのかもしれませんが、それがきっかけになってパラ陸上界に入ることにしました。
それと同時に、作業療法士の国家資格を取りたいと思うようにもなっていました。僕のリハビリを担当してくれた作業療法士の方を見て、「すごく自分のことを見てくれた」と感じたんです。作業療法士は僕に対してだけではなくて、患者さん一人一人にすごく向き合っている仕事だと思って、自分も目指すことにしました。
今年から作業療法士として働き始めましたが、専門学校の最終学年だった去年は本当に大変でした。思い出しても涙目になるくらいです…(笑)。
専門学校での課題に追われる中でも、パラ陸上の世界では次々に記録を打ち立てていきました。両立は非常に大変だったのではないでしょうか?
去年まではパラ陸上以外の部分でやらなければいけないことが多くて忙しすぎました…。その影響で、パラ陸上自体が自分の中でサブ的な位置付けになってしまっていて、当時はあまり何も考えられていなかったような気がします。
東京パラリンピックも、「自分が目指した」というよりは「舞い降りてきた」という印象でした。当時は学校のことばかり考えていたし、単位に影響が出ないように気をつけながらスケジュール調整などをしていました。実際に振り返ってみると、東京パラに出た時は「まだ若かった」というのが感想です。結果もさんざんでしたし、選手村でも競技に集中できるような生活を送れなかったので、まだまだでした。
→【後編】NAGASEカップで好記録 世界の頂点を目指して