年号 | 長瀬産業株式会社の歩み | ||||||||||
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1917年 |
株式会社「長瀬商店」の設立
取引量の拡大とともに長瀬商店の組織も大きくなり、整備が進んだ。大正6年(1917)4月27日には、従来の店別単位を部単位の営業体制に改め、取扱商品の類別によって染料部、薬品部、機械部、雑貨部の各部門を設け、これまでの輸出部、輸入部を加え新たに本部を設置した。資本金については明治37年(1904)が4万2,500円(それ以前は不明)、明治39年10万円、大正5年100万円と、順調に増やしていった。
時代
背景 時代背景
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1923年 |
イーストマン・コダック社との取引
当時、営業全般を担当していた長瀬徳太郎常務が注目したのが映画用生フィルムで、アメリカのイーストマン・コダック社(Eastman
Kodak)からのフィルムの輸入販売である。
大正15年(1926)3月、本店に活動写真材料部を立ち上げたのがのちの映画材料部のスタートとなった。当初、この事業はまるで採算が合わなかったが、やがて当社のフィルム販売高は国内で第1位となり、イーストマン・コダックとのつながりは緊密なものとなった。その後、大日本セルロイド(現ダイセル化学工業株式会社)が初の国産映画用生フィルムの製造に成功し、昭和9年(1934)1月には富士写真フイルム株式会社(現富士フイルム株式会社)を設立して映画用フィルムの生産を開始した。当社は同じ年に同社製品の販売契約を締結している。映画業界への販売シェアの拡大により、昭和8年5月に東京支店にも活動写真材料部を設け、昭和16年には同部を映画材料部に改称した。 時代
背景 時代背景
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1930年 |
染料塗料事業の強化、米UCC社の販売代理店に
当社がアメリカのデュポン社(E.I.DuPont de Nemours &
Co.,Ltd.)の画期的な塗料「デュコ(DUCO)」の輸入販売のため、交渉を重ねて総代理店契約を結び、これを機会に本店に塗料部を新設したのは昭和2年(1927)9月だった。当社は翌昭和3年1月に塗装研究所と塗料専用倉庫を設け、また『長瀬塗料月報』を発刊して宣伝と輸入塗料の販路拡大に努めた。同年5月には東京支店にも塗料部を設置し、関東以北にも販路を広げている。またこの年、木造だった平野町の本店を耐震・耐火性能に優れた鉄筋コンクリート造として立売堀に新築、移転した。 時代
背景 時代背景
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1932年 |
創業100周年を迎えて
昭和7年(1932)6月18日、当社は創業100周年を迎えた。このときの役員は長瀬伝三郎社長、長瀬徳太郎常務、長瀬半次郎常務、長瀬伝兵衛(千尋より改名)取締役、長瀬伝次郎監査役である。 時代
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1940年 |
名古屋支店の開設 当社は、個人経営の時代から名古屋方面の市場に進出していたが、取引が増えると出張所の必要性がクローズアップされるようになり、昭和8年(1933)11月に、まずビルの一室を借りて名古屋出張所を開設した。同13年9月には名古屋市東区にあった土地建物を買収して移転し倉庫も併設、同15年4月に支店に昇格した。 時代
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1943年 |
長瀬産業株式会社へ社名変更
昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカ、イギリス両国に宣戦し、ここに4年に及ぶ太平洋戦争が始まった。当社は戦時下の昭和18年6月1日、それまでの「株式会社長瀬商店」から「長瀬産業株式会社」へと社名変更を行った。これは従来の商事・貿易業務だけでなく、関連会社に生産会社をもち、また直営工場を新設し、さらに生産事業への進出を見込んでいたためである。 時代
背景 時代背景
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