年号 長瀬産業株式会社の歩み
1982年

創業150周年記念式典

昭和57年(1982)6月18日、当社は創業150周年を迎えた。江戸末期の天保3年(1832)に京都・西陣に店舗を構えてから、明治維新、第一次大戦後の不況、第二次大戦での敗戦、そして戦後は食糧難、瓦礫と化した国土の復興、近くは石油ショックと、時代の洗礼を受け、何度も難局に遭遇しながら、これらを乗り越え成長してきた。

そのころ、巷間では「企業の寿命30年」説が語られていたが、それに対して150年の歴史を有し、なお成長発展を続けていることに、当社の全社員が誇らしさを感じるのは当然といえた。

当社は、この創業150周年を記念して、東京・パレスホテル(昭和57年7月9日)、大阪・ロイヤルホテル(同月15日)において祝賀パーティーを開催した。両会場には取引先、金融機関をはじめ各界の名士多数の参加を得て、祝賀会は盛会のうちに終了した。

当社は、同年1月に彰造社長、英男副社長の新体制がスタートしたとき、誠造社長の急逝という状況もあって就任披露パーティーは自粛していた。よって150周年の祝賀パーティーは、新社長、副社長の就任披露を兼ねる形となった。

社報の「創業150周年記念特集号」に寄せた彰造社長の言葉に所信表明の響きがあるのはそのためである。特集号の巻頭で彰造社長は次のように述べた。

「経済界は、かつてのような高度成長と異なり低迷を続ける景気の中で量的な拡大をはかることは難しく、そのうえユーザーのニーズもますます多様化しています。また技術の進歩もめざましく、革新的な技術が次々に新しい素材をつくり出し、すぐれた機能を生み産業の姿をさえ変えつつあります。企業にとって最大の関心事であり、課題はこの環境の変化・動きにいかに適切に対応し、将来の発展に結びつけて行くかということです。もはや既存の商権に安住できるような時代ではありません。 150年という歴史の長さは確かに誇るに値するものですがこれからの発展を保証してくれるものではありません。長き歴史と伝統を誇るより先ず歴史のある会社に新たな活力を与え、体質を改善し強化することに力を合わせて努力することが大切な時であると思います。これなくしては、残念ながら生き残れる保証はありません」

150周年記念パーティーで壇上に立つ長瀬彰造新社長(右端)、英男副社長(右から2人目

150周年記念パーティーで壇上に立つ長瀬彰造新社長(右端)、英男副社長(右から2人目


祝賀パーティー風景

祝賀パーティー風景

時代
背景

時代背景

1982年
第1次中曽根内閣を発足
500円硬貨発行
1983年
任天堂から「ファミリーコンピュータ」発売
1986年

コダック・ナガセの設立と分離

昭和61年(1986)6月、当社はイーストマン・コダックとの折半出資により、新会社コダック・ナガセ株式会社を設立した。新会社は、それまでコダック製品事業部が行っていたコダック製品の輸入、販売、サービス、流通活動のすべてを継承し、8月1日から営業を開始した。

コダック・ナガセ設立当時のコダック社は、アメリカ以外では世界7カ国に製造工場をもち、40カ国に販売会社を擁していた。これら主要国の販売会社のうち、写真製品事業分野で代理店形式をとっていたのは日本だけであった。そのため、コダックは世界の各国で行っている独自のマーケティングを日本でも展開したいと考えたのである。

当時は、資本自由化が進む中で、多くのグローバル企業が独自のオペレーションをめざし、日本の代理店との関係を見直していた時代であり、必然的な流れでもあった。

新会社への事業継承によって、コダック製品事業部で担当してきた写真材料ビジネスは当社から分離することになった。当時のコダック製品事業部の売上高は約700億円、売上高全体の14%であった。化成品や合成樹脂などのビジネスが大きく伸長していたが、700億円の売上高が一気になくなることは、少なからぬ打撃であった。

それと同時に、530名の社員が新会社に転籍することになった。コダックでは、新会社に転籍してくる社員に対し「equal or better (同等もしくはそれ以上)の待遇を保証する」と明言していた。しかし、全社員の約1/3を転籍させたことは、当社経営陣にとってきわめて大きな決断であった。

コダック・ナガセ設立から3年4ヵ月後の平成元年(1989)1月、当社はコダックの強い要請を受けて、コダック・ナガセ株の当社所有株全株をコダックに売却した。これにともないコダック・ナガセは、コダック全額出資の日本コダック株式会社(現コダック合同会社)となった。

時代
背景

時代背景

1986年
男女雇用機会均等法が施行
バブル景気
1987年
国鉄分割、JRグループ発足
1988年
映画「となりのトトロ」公開
1989年

長瀬科学技術振興財団の設立

平成元年(1989)4月、当時の長瀬彰造会長、当社および関係会社の拠出資金によって「財団法人 長瀬科学技術振興財団」を設立した。

戦後の日本の化学業界は飛躍的な発展を遂げてきたが、将来的な一層の発展のためには、科学技術の基礎的な分野におけるレベルアップが不可欠と指摘されてきた。そこで、生化学と有機化学両分野における研究開発、国際交流の助成を行うことによって科学技術の一層の振興を図ろうと、当社の設立70周年を記念して長瀬科学技術振興財団を設立したのである。

助成事業の概要は、生化学および有機化学などの分野における研究助成、国際交流助成、研究成果の普及ならびに当財団の目的を達成するために必要な事業への助成となっている。



東京・大阪2本社制の採用

平成元年(1989)7月1日付で東京支社を東京本社に昇格させ、東京・大阪2本社制を敷いた。

昭和50年代半ばごろから、当社の取引先である関西企業や金融機関の東京シフトが進んだ。この背景には営業活動だけでなく、中央官庁との折衝、業界団体関連業務さらには金融、資本市場、国際業務の東京集中があったものと推測できる。

当社においても昭和60年代半ばの時点では東京支社に大半の本部機能が集中し、総売上高に占める東京支社の取扱割合は54%、また人員構成においても全社員の56%を占めるまでになっていた。そこで、首都圏でのより的確迅速な情報の収集および営業基盤の拡大を図るため、東京・大阪2本社制に踏み切ったのである。

時代
背景

時代背景

1989年
昭和天皇崩御
元号が「平成」に改元
消費税施行
ドイツ・ベルリンの壁が崩壊
1990年

研究開発センターの発足

平成2年(1990)4月26日、念願の研究開発センター(ナガセR&Dセンター)が、計画立案から5年の歳月と総工費約30億円をかけて神戸ハイテクパークに完成した。

6月11日に全国の大学、取引先など多数の来賓を迎えて神戸オリエンタルホテルで開催した竣工記念パーティーの席上、長瀬英男社長は次のように挨拶した。

「技術情報商社として、グローバルな企業活動を展開して参りました当社の使命は、刻々、変化・展開し続ける先端技術情報を集積・評価し、それに新しい価値を付加して、社会に還元していくことと考えております。その使命を強力に遂行するために、新しいテクノロジーを駆使した、研究開発機能と技術評価機能を有する機関の必要性を痛感し、当センターの建設を決意した次第であります。 これまで、個々の営業部や関連会社で蓄積してきた技術や開発機能を当センターに集中統合し、研究・生産から販売まで一貫した企業活動を推進することが、ナガセグループ発展の基盤の一つになるものと確信しております。 当社は、技術というバックボーンの上に、ユニークな商社として確かな実績を積み上げて来ましたが、皆さんと共に研究開発センターを新しい機能として育成・活用し、将来のナガセグループ全体の繁栄に寄与させていただきたいものです」

この挨拶には、英男社長のR&Dセンターに寄せる思いが凝縮されていた。

完成した研究開発センター

完成した研究開発センター

時代
背景

時代背景

1991年
都庁移転
バブル経済の崩壊
第58代横綱千代の富士が現役を引退
カーボンナノチューブが発見される
1995年

電子・情報材料部の発足

当社はエレクトロニクス分野に関連するビジネスを強化するため昭和50年代半ばに産業電子資材部を発足させ、さらに電子部の新設へと取り組みを強化してきた。また一方で、合成樹脂第2部など各部においても電子・情報に関係するビジネスが増加し、電子部との間で活動に重複する部分が見られるようになった。

そこで当社は、平成7年(1995)4月、電子部と合成樹脂第2部のかなりの部分を統合し、電子・情報材料部を発足させた。これは電子・情報分野で激化する競争に勝ち抜き、当社としてより大きな事業の柱に育てるために行った組織変更で、長瀬英男社長がかねてから唱えていた「従来の部の枠を超えた変革のための組織的・制度的対応」の第一歩であった。

時代
背景

時代背景

1995年
地下鉄サリン事件発生
「たまごっち」ブーム
1998年
長野オリンピック開催