年号 長瀬産業株式会社の歩み
1968年

米国・ゼネラル エレクトリック社と代理店契約締結

昭和40年代前半、今日「エンジニアリングプラスチック(略称・エンプラ)」と呼ばれるプラスチックは、国内の一部化学メーカーが販売を開始していたが、まだ市場は創成期ともいうべき状況だった。一般的なプラスチックとして知られ、当社が中心に扱ってきたのも塩化ビニルやポリエチレン、ポリスチレンなどの汎用樹脂であった。しかし、当社はそのころからエンプラの特性には注目していた。

そうした状況の中、日本に本格的な進出を図っていたゼネラルエレクトリック社(GE)は、日本のパートナーとして8~9社の日本の代表的な商社を、また日本での生産も念頭に入れ、合弁相手にふさわしい化学品メーカー十数社を綿密に調査していたが、当社が日本において最も信頼できるパートナー候補という評価を下した。そして、当社とGEは昭和43年4月に代理店契約を締結したのである。

当初、当社内にはGEのパートナーとして名乗りを上げることに反対意見もあったが、最終的にはエンプラの特性に賭けた。その選択の背景には、来日して熱心に提携を説いた、後のGEのトップである、樹脂部門の責任者ジョン・F・ウェルチ氏の存在もあった。

その後、エンプラの生産・販売体制を整えた当社は、昭和46年6月、GEと折半出資による合弁会社エンジニアリング・プラスチック株式会社を設立した。

GEプラスチック本社(マサチューセッツ州ピッツフィールド)

GEプラスチック本社
(マサチューセッツ州ピッツフィールド)

時代
背景

時代背景

1968年
「三億円事件」が発生
1969年

東京新社屋の竣工

昭和44年(1969)10月、東京支社新社屋が竣工した。東京支社員にとっては待ちに待った竣工であった。

新社屋の建設は過去において数度計画されたが、種々の事情から実現できなかった。しかし、昭和30年代半ば以降の東京支社はコダック製品部、家庭用品部などをはじめとして社員の増加が著しく、事務所の狭隘化が目立った。そのため、昭和42年後半に建設計画が打ち出され、隣接地を買収、総面積1,171㎡の敷地に、地下3階、地上8階、塔屋4階の新社屋が建設されたのである。その後、昭和53年6月には本館と同規模の新館が増築されている。

創業150周年記念事業の一環として、昭和55年(1980)11月に着工し、建設を進めていた大阪本社新社屋が昭和57年6月に完成した。昭和3年に建築された4階建て本館の隣接地に竣工した本社新社屋は、竣工直前に逝去した誠造社長の意向がいたるところに反映されていた。省エネルギーを重視するとともに、建物の外観は、当時の洋風建築を模した本館のイメージを損なわないよう、同じスクラッチタイルで仕上げ、銅板葺きの屋根が架けられた。また、建物の中心部は吹き抜けの中庭とし、縦横に開閉できる窓など、室内の採光、通気に対する配慮が施されていた。

伝統を生かした風格と近代的機能を兼ね備えたオフィスビルとして完成した新館の延べ床面積は1万156m²で、地下2階、地上10階、塔屋3階。当時の長瀬誠造社長がその竣工を心待ちにしていた新社屋であった。

竣工した東京支社新社屋(昭和44年10月)

竣工した東京支社新社屋
(昭和44年10月)

時代
背景

時代背景

1969年
東名高速道路が開通
アポロ11号が人類初の月面有人着陸に成功
1970年

長瀬チバ株式会社の設立

アラルダイトの需要は増加の一途をたどり、昭和40年代初めころには尼崎東工場の生産能力は限界に近づいていった。そのころから当社とチバ社との間で、アラルダイトの生産と販売に専念する新会社を合弁で設立する話が持ち上がり、両社でプロジェクトチームを結成して、新会社の社名に始まり、生産規模、両社の役割など三十数項目にわたる協議を開始した。

このチバ社との交渉で当社側の前面に立ったのは化成品の管掌役員であった長瀬英男常務(当時、のち会長)だった。英男常務によれば「合弁会社設立に関する協議項目には解散するときの優先権(First Refusal Right)はチバ社がもつというのがあった。これから希望をもって新会社をつくろうとしているときに、チバ社は将来解散した場合のことまで想定していた。こうしたことを含めて欧米企業の経営発想については多くを学んだ」という。

昭和45年(1970)4月、当社とチバ社、チバ製品株式会社3社の共同出資となる長瀬チバ株式会社が政府の認可を得て設立された。払込資本金は2億5,000万円で、出資比率は当社50%、チバ25%、チバ製品25%とした。

なお、アラルダイトの製造は、当社が昭和43年11月に取得した新工場(播磨工場)の土地の一部約1万坪(3万3,191㎡)を譲り受け、その敷地に建設された5棟から成る竜野工場で開始された。



東京・大阪両証券取引所市場第一部銘柄に指定

当社の株式は昭和39年(1964)9月21日に大阪証券取引所(市場第2部)へ上場していたが、関東以北の株主数が増加し、関東地方における株式取引の円滑化を図るため、同44年7月1日東京証券取引所に上場申請書を提出した。そして、同取引所ならびに関東財務局の審査に通り、上場の許可を得て、当社の株式は東証2部上場での取引が開始された。

東証2部への上場を果たした翌45年8月1日、当社の株式は大阪、東京両証券取引所の市場第1部銘柄として取引されることになった。

この第1部への指定替えでは、会社知名度の向上により、営業取引のみならず優秀な人材の確保が可能になることのほか、株式の市場性が高められ、株主層が拡大するため、増資による資金調達が容易になるといったことも期待された。



播磨工場の開設

当社は有機化学製品類を製造するため、昭和36年(1961)4月に尼崎東工場を創設し、エポキシ樹脂「アラルダイト」の変性をはじめ、独自に開発した水溶性エポキシ化合物(NER/デナコール)、染色助剤、防黴剤など各種製品を生産してきた。その生産量は著しく増大し、順調に業績を伸ばしてきた。

生産の拡大とともに尼崎東工場は、さらに多くの研究開発テーマを抱えるようになり施設の増設、強化が必要となったことから移転を計画した。昭和43年11月、移転先は兵庫県竜野市竜野町中井の用地を選び、土地約3万坪(9万9,919㎡)を購入した。そして翌昭和44年4月から工場建設に着手し、昭和45年3月末に第1期建設工事が終了、尼崎東工場の設備を移転して、4月から播磨工場の名称のもとに操業を開始した。

昭和46年当時の長瀬チバ

昭和46年当時の長瀬チバ





































第1期建設工事が完了した播磨工場

第1期建設工事が完了した播磨工場

時代
背景

時代背景

1970年
ビートルズが解散
大阪万博開幕
1972年
元日本陸軍兵士の横井庄一氏をグアムで発見される
沖縄返還
固定相場制から変動相場制に移行
1973年
第一次オイルショック
祝日法改正(振替休日制の導入)
1976年

福知山工場の開設

当社が酵素製造部門を設置したのは古く昭和14年(1939)に遡る。当時輸入されたばかりの外国製の優秀な糊抜剤に対抗し得る、細菌由来の酵素糊抜剤を国産化する企画を立て、現在の尼崎市尾浜町に工場を建設し酵素製造のスタートを切ったのである。  その後商品化するまでには数多くの苦難があったが、昭和17年に糊抜剤「ビオテックス」の出荷にこぎ着け、以後も製造技術の改善、研究に努め商品の幅を広げ「酵素の長瀬」といわれる評価を得た。尼崎工場では微生物の培養、酵素の生産、応用で培われた技術を活かし、医薬品、診断試薬、食品加工、飼料、工業用などに向けた各種酵素を開発して商品化してきた。また、酵素を応用した商品開発では飼料業界に向けて粉末油脂も供給してきた。

しかし、酵素製造発祥の地である尼崎地区は昭和48年に市街化区域に指定され、工場拡張もままならず、移転せざるを得ない事態となった。そのため、当社は、同50年7月、京都府福知山市の長田野工業団地に3万6020m²の用地を得て、工場の移転計画を立て、第1期工事に入った。そして翌51年2月に福知山工場は竣工を迎えたのである。

福知山工場

福知山工場

時代
背景

時代背景

1977年
日本初の静止気象衛星「ひまわり」が打ち上げられる
ピンクレディーが大ヒット
1979年
第二次オイルショック
1981年

家庭用品部からビューティケア製品部へ

昭和43年(1968)に新設された家庭用品部は、主にNHP(ナガセ・ホーム・プロダクツ)製品と呼ぶ家庭用化学品を全国の直販組織で販売していた。

しかし、NHP製品は商品単価が低く、かさばって重いため、商品を販売する女性に負担がかかりすぎるという問題も浮かび上がり、売れ行きは思わしくなかった。そのためNHP製品に代わる直販に適した商品の選定が、当社にとって緊要課題となった。

このころ、取引先の東洋高圧株式会社(現・三井化学株式会社)から提携の打診があった。同社は細胞の若返り効果があるというγ-オリザノールの抽出に成功し、それをベースとした化粧品を開発、子会社を設立して製造販売を行っていた。その化粧品を当社の直販組織で販売してほしいとの申し入れであった。

当社は提携を快諾し、その化粧品を当社のオリジナル・ブランドで販売することで合意した。当社は販売を開始するに当たって、一つのコンセプトを固めた。それは、皮膚の美化からスタートして、健康食品および物理的療法まで幅広く展開し、真の意味での総合美を追求するというものであった。そのコンセプトを当社は、「NBC」の言葉で表現した。ナガセ・ビューティ・ケァの頭文字をとったものである。

NBCの最初の商品は「アルファメティックス」のブランドで昭和43年11月にスキンケア製品が発売された。翌44年にはヘアケア、若年向きのスキンケアトウェンティを発売、昭和46年には健康づくりの第一号商品ロイヤルゼリープラスが発売された。

NBC商品はその後も商品ラインアップの充実が図られ、昭和50年代前半には1万名を超えるビューティコンサルタント(訪問販売員)による直販組織となり、当社の有力事業部門へと成長を遂げた。

なお、NHP商品の販売は、製造元のAHPが国産に乗り出す体制をつくった昭和50年を機にピリオドを打ち、昭和56年5月には家庭用品部をビューティケァ製品部に改称した。

ビューティケァ製品部への部名変更(栃木地区マネージャー会で)

ビューティケァ製品部への部名変更
(栃木地区マネージャー会で)

時代
背景

時代背景

1981年
第40代アメリカ合衆国大統領にロナルド・レーガンが就任
中国残留孤児が初来日